演劇倶楽部企画公演『バカンス』所信表明
2023 年 1 月 10 日
主宰 演劇俱楽部 34 期 瀧口さくら
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2020 年。新型コロナウイルスの世界的な流行により、人々の足は止まりました。
芸術分野に限らず、ありとあらゆる数字が落ち込んだことでしょう(転売ヤーは別ですかね)。演劇も例外ではなく、大ダメージを受けました。文化芸術フォーラムの調査によると、2019 年と 2020 年では約 70%もの収入減がみられるそうです。
その大きな要因は、演劇の作り方が、人が何人も同じ空間に集まって長期間制作し生で人に観てもらう、という Theアナログな手法を取ることにあると言えます。それを乗り越え、演劇を作るにはどうしたらいいのか。
演劇を作れない期間、人々には考える時間ができました。それと同時に、収入もなくなりました。この状況が、人々が演劇の脆弱性に向き合う契機となったことは明らかでしょう。私も、その人々の内の一人です。役者としての公演がなくなり、代わりに制作というスタッフワークを始めたことで、演劇という芸術が持つ課題がたくさん見えてきたのです。
例えば、シャドウワークが多いこと。
例えば、新規顧客開拓が難しいこと。
例えば、演出家と役者間の権力構造に気が付いていないこと。
例えば、どんな作品でも観客を傷つける可能性があること。
これらの課題は、なにもコロナの流行により新しく生まれたものばかりではありません。
ほとんどがもう何年も前から問題視されていたことであり、それらが見えるようになったというだけなのです。
この公演を通して、私は、この数年思案してきたことを実践し、形に残したいと考えております。全部の課題を解決できる魔法の特効薬はありません。ですが、私が先述した問題解決意識を大学生の座組一同が持つこと、また、この公演の存在を広め、演劇を上演することに意味があると思うのです。
ここからは、この公演のポリシーと具体策を 4 つに分けてご説明いたします。便宜上分けますが、それぞれは完全に独立してはおらず、問題点や解決策が重複することもあります。
また、あくまで私の体験に基づくものであり、必ずしも正しいわけではない(論文ではない)ということをご承知おきください。
1.演劇をブラックボックスにしないこと
具体策:プロセスをオープンにする。
稽古の様子やスタッフワークなど、制作過程を記録に残し、公表する。
演劇への敷居を下げる。
演劇がどう作られているのか、ご存じですか?
いつから作りはじめるのか、どんな人が何をしているのか...。演劇を作ったことがない人はもちろん、作り手でもほかの団体が、あるいは他のセクションが何をしているのか、知らないことも多いのではないでしょうか。
芸術は完成された作品が全てで、それ以外に語る言葉を持つべきではないという方もいらっしゃるかもしれません。確かに、お客様にとってはその場で観る作品が全て。
...はたして、本当にそうでしょうか。その美学に裏に隠れてしまうには多すぎるほどの人々が、演劇にはかかわっていませんか。
私は、役者ではなく制作として演劇に関わるようになって、求められる奉仕精神の強さに大きなギャップを感じました。
制作って、お客様からしたら一番何をやっているのかわからないセクションだと思うのです。言うならば裏方のさらに裏方のようなセクションで、作品の裏方が音響や照明に分担されているとして、そのさらに裏方の仕事を制作が担っているように感じています。仕事の幅は広く、平たく言えば「なんでも屋さん」です。なんでも「はい喜んで」と応え仕えることが仕事だから、仕事量はどんどん増えるけれど、それが作品の表に出ることはほとんどありません。
なにも制作に限ったことではないのかもしれませんが、要するに評価されにくいのです。そうなると評価基準もないためギャランティが安かったり、なりたいと思う人が少なく仕事が少人数に集中してしまったりと、とてもやりがい搾取が起きやすいセクションだと私は思っています。他者からの評価はギャランティにも直結しますし、演劇を仕事として続けるうえで大切なやりがいを作る要素だと思います。それがない状態で仕事をするのは、はたして健全と言えるのでしょうか。
こんな風に、表に出ない労働が、作品の裏には山ほど隠れています。
ならば、表の人がまっとうに評価されているかと言えばそういう訳でもありません。
役者の商売道具の一つは目に見えない感情です。上手い下手の基準は作品や見る人によって異なるし、やろうと思えばだれでもできてしまう。役者によってさまざまな役作りがありますし、お風呂に入っているときも考えたりして「役者の仕事」にたくさんの時間を費やしているはずなのに、作品として表に出たものだけでは、役者の仕事が仕事として評価されないことがある。
なら、隠すのをいったんやめてみませんか。演劇には種も仕掛けもあるのです。作品だけでなくそのプロセスをオープンにすることで、仕事として演劇を評価してもらえるようにできないだろうか、という試みです。
あわよくば、演劇の敷居が低くなったらいいとも思っております。観劇に行くことの敷居の高さは言わずもがな、それだけではなく、演劇を作ることへの敷居も下げられないでしょうか。
舞台役者は稽古が楽しくて演劇をやってる節があると思うのです。
スタッフだって、仕事としては作品を共同で作っていく過程がほとんどなわけですし。
演劇は、作る過程にも魅力がある。それが伝えられたらと思います。そして、例えばアイスブレイクやレクリエーションとして演劇がもっと便利に使いやすいものになれば、活動の幅を広げることにも繋がるのではないかとも思っています。
2.演劇をお金(≒仕事)にすること
具体策:
予算をノルマで集める。
↓
協賛とクラウドファンディングで予算を集め、ノルマをお返しする。
↓
チケットの売り上げで十分なギャランティをお支払いする。
上記の流れを達成させる。
演劇を作る人は、たいてい自腹を切って赤字で演劇を作っています。学生の場合も例外ではないので、バイトと、演劇と、学業の三足のわらじを履いている人が多いです。そこに一人暮らしなら家事もあるわけですし、当たり前ですが、稽古が続けばバイトに行くのが難しくなり、収入は減るのに出費は増えるばかり。それに加え、早稲田演劇の一部には特有のノルマとギャランティのシステムがあります。それは主宰と役者がノルマを負担し、スタッフチーフにはギャランティをお支払いするというものです(補佐のギャランティはない場合もあります)。このシステムにより、演劇を主宰するには多額の出費が迫られますし、役者は役者でオファーがあればあるほどお金を払わなくてはなりません。
私にはこれが、お金持ちしか演劇をつくれないシステムのように思えてなりません。役者だって仕事です。ただ楽しいばかりではありません。拘束時間は長いですし、自分を見せ物にするような大変な仕事です。主宰は確かに、自分の作品に多くの人を巻き込むわけですから、本来であれば座組全員にギャランティをお支払いするのが筋ではありますよね。でも、私は石油王ではないので、それはできません。学生は助成金の対象でない事も多く、どうしても座組の方からお金をお借りするか頂戴する必要があり、ノルマシステムの撤廃は難しいのが現状です。
ならば、と、私は協賛してくださる企業やお店を探すことにいたしました。また、クラウドファンディングも実施し、どうにかして座組外からお金を集めるチャレンジをします。学生だけど、ではなく、だからこそ、こういう選択肢もあると示せたらと思っています。
こういった方法を取ったうえで、何とかしてチケット売り上げで少しでも黒字にできるよう努力する責任があると私は感じております。売ることを諦めたくはありません。しかしながら、芸術でお金を稼ぐことの難しさは、みなさんご存じかと思います。
よく「商業演劇」という言葉を耳にします。これは授業で知った区分ですが、商業演劇が商業として成り立っている演劇のことを指すとしたら、例えば対になるものを助成金演劇と呼んでみることにします。エンタメ性や予算規模の違いがあり、どちらもそれぞれなくてはならないと思うのですが、収益ではなく助成金(と、自腹)で成り立つ演劇に携わることは仕事をしていると呼べない、という風潮を私は感じています。言い換えると、「好きなことをやってお金にならないのはしょうがない」、「商業演劇は成功例で、助成金演劇は売れてない人たちのもの」というような。インボイスに反対するフリーランスへの風当たりの強さからも、その目をとても感じます。確かに、極論誰も見ていない演劇は演劇として成立しませんから、お客さんが少なくてもこれが芸術だからいいんだというような開き直りを肯定はできませんが、売る努力をしていないなんてことはないでしょうし、それでも仕事と呼べないというのはいかがなものか、とも思うのです。
私は、以上を踏まえて「助成金演劇をちゃんと売る」ことはできないのかと考えるようになりました。作品のソフトを作ることだけではなく、たくさんの人に観ていただいて上演として成立させることまでを演劇と呼べたら、どんなにいいだろうと思います。今回は助成金ではありませんが、同じことです。
さて、チケットを売るため、そして協賛先を増やすためには、とにかくいろいろな人に知ってもらうことが重要でしょう。広報に力を入れるため、制作が担っていた広報の仕事を独立させました。折り込みに始まり、SNS 運用、アフタートークやコメント掲載など、思いつく限りの手を尽くす所存です。
また、当公演では明確にセールスポイントを作ることも意識しています。例えばコンセプトを明確にしてどんな人に観てもらいたいかゾーニングをしたり、今書いているような演劇の作り方に関する 4つの目標を定めることで、それ自体も特徴として売り出したり、といったことです。
予算をノルマで集める。
↓
協賛とクラウドファンディングで予算を集め、ノルマをお返しする。
↓
チケットの売り上げで十分なギャランティをお支払いする。
この流れが実現出来たら、この目標は達成されたと言えるでしょう。
3.心身が健康な状態で、楽しく作ること
具体策:主宰補佐という、稽古場ないしは座組の内側に入りすぎないセクションを設置。また、『座組の方針』 として、ハラスメント対策や何かあったときの対応策を座組に周知し実施までのフローを作成。
私は、役者として演出家に従順に、自分をなくして芝居をしてしまったことがあります。そのときはまだそれが辛いことだと気付いておらず、むしろ大変だったその経験を自分に必要だったと解釈して、美化して役者を続けていました(そうしないと続けられませんでした)。その後に主宰・演出という特権的な立場になって、過剰な負荷を役者にかけてしまい、そこで初めて演劇の持つ権力構造が生まれる仕組みに気が付くとともに、無自覚に人を傷つけてしまったことにとても怖くなりました。
楽しく仲良く作りたい。それだけがどうしてか難しい。
ここで改めて、もうご存じかもしれませんが、演劇を作る過程で起きやすい権力構造について、演出・脚本家と役者の関係を例に挙げ書いておこうと思います。
演劇を作るとき、たいていの場合は演出と脚本を担当する人がいます(それを一人でやることもそれぞれ別の人がやることもありますが、日本では一人が担当することが多く、権力の集中が起きやすいことが問題とも言われています)。役者は脚本を舞台に立ち上げることが仕事なので、脚本に書かれた言葉を言わなければならないし、演出家に指示されたことをやらなくてはならないという権力構造に、自動的に組み込まれてしまいます。ここで問題なのは、この構造それ自体なのではなく、権力を持つ側がその権力構造を解体しないまま、演劇を作ってしまうことです。
例えば、脚本の中身や演出で役者が何をしなくてはならないのかがオファー段階で明かされていないことがあります。社会人による演劇はおよそ 1 年かさらに前から企画が立ち上がり動き出しますが、学生の場合はもっとギリギリになる傾向があり、本番 1 週間前に台本が完成する、なんてこともあります(もっとギリギリのものも)。そうなると、内容の共有は必然的に遅れます。すると「本番が近い」という状況がプレッシャーとなり、役者やスタッフは内容に異を唱えることが難しくなります。権力に自覚的であれば、内容が先に共有されることの必然性を理解するのはたやすいでしょう。
また、演出方法が役者その人のパーソナルに大きく関わることはザラです。感情、またそれの基となる経験という目に見えないその人自身のものを扱うときは、本来とても慎重にならなくてはなりません。しかし「役者は作品のためなら何でもやるのが仕事」という通念によって、役者本人の心はいったん置いとくようなことをしがちです。演出家や脚本家だけでなく、役者自身も、自分をないがしろにしてしまう。確かに、役 A の言葉や動きは役者 B 本人のものではないので切り離して考えることもできるかもしれません。でも、役 A は役者 B を通じてしか現れることができないのですから、役者 B をないがしろにしていいはずもないのです。
このような通例、通念、言い換えれば界隈の常識のようなものが、役者本人のことを隠し、演出家や脚本家、ひいては作品のために何でもさせる/するのがよい/必要であるという無自覚な権力差を生んでしまうのです。今はわかりやすく演出・脚本家と役者の関係を例に挙げましたが、こういった構造はどんな関係においても生まれる可能性があります。
演劇は、人と関わらなければ作れない分野の芸術ですので、コミュニケーションが必須になります。コミュニケーションにマニュアルはなく、何がどうなって人を傷つけてしまうのかわかりません。とはいえ、ある程度踏み込まないと人の心は扱えないし、表現したいことを共有できないと思います。そのため、傷つけないために、踏み込まなくてはならないのではないでしょうか。その踏み込み方が、土足で当たり前のように入っていくのではなく、靴を脱いで、お互いに確認を取ってお邪魔するくらいが最初はちょうどいいのではないかというのが、私の考えです。
長くなりましたが、要するに「仲良くなること、そして親しき中にも礼儀を忘れないことが大切だ」という文字にしてみると至極当たり前の認識を、作品作りという目的のために集まった人々の間でも、持ちましょうということです。気を付けすぎてがんじがらめになってもやりづらいですから。
上演することにより生じる、自身と作品・座組・お客さんとの間の責任を負う覚悟を持って、座組全員で楽しく健やかに、踊るように演劇を作りたい。これが私の理想です。
4. センシティブなテーマを取り扱うこと
具体策:テーマについて勉強会の実施。また、外部講師を招いて意見交換会を実施予定。
今回、作品のテーマには「演劇×シスターフッド・家族・SOGI」を掲げています(SOGI は、Sexual Orientation(性的指向)と Gender Identity(性自認)の頭文字をとった言葉。LGBTQ はマイノリティのみを指すが、SOGI はあらゆる性的指向・性自認を包括する)。それは、自分が書きたい話であることはもちろん、演劇でいわゆるセンシティブなテーマを扱うことの難しさに近年直面しているからです。
例えば実在するマイノリティについての演劇を作ろうと思ったとき。完全な想像で書いて、演出を付け、役者に演じてもらったとしたら、そこには作家の「こういう演劇やりたい」という欲求以外の裏付けがないように思います。そうして生まれた上演は、例えどんなに真に迫っていたとしても、事実を知らない限りファンタジーになってしまうのではないでしょうか。
ファンタジー自体が悪いわけでも、空想で作ることが悪いわけでもありません。そうなったら、地獄の住人の話を生きてるうちには書けないですよね。また、現実世界の内容だったとしても、必ずしもリアルに作らなくてはならないわけでもありません。生きてて突然歌いだしたりしませんし。問題は、こういったセンシティブなテーマを扱うときの当事者性が必要ではないのか、ということです。
ここで一度、センシティブなテーマ、の意味を確認しておきたいと思います。そもそもそういったテーマとそれ以外の線引きはどこにあるのでしょう?「sensitive」の意味には、敏感な、〔他の人の言葉などに〕傷つきやすい、などがあります。類似して使われる「delicate」は、〔問題などが〕慎重[細心の注意]を要する、さじ加減の難しい、〔身体が〕弱い、虚弱なという意味があり、違いとしては精神面や内面に対しては「センシティブ」を、身体的や表面的なものに対しては「デリケート」と使うことが多いようです。
芸術は、見た人の目に見えないものに影響を与えます。ある種の暴力ともいえるかもしれません。扱うテーマが、過去それによって心に傷を負った人が多いものならなおさら「センシティブ」という言葉を使うに値するでしょう。なので、線引き、というよりも、その度合いのグラデーションなのだと思います。今回の公演においては、明確な線引きを決めてしまうよりも、どんな芸術、表現、演劇でも人を傷つける可能性があることに自覚的になって、稽古や本番に取り組むことが重要であると考えます。
さて、当事者性の話に戻ります。私は、センシティブなテーマを扱うなら必ず当事者性、ないしは取材や勉強が必要であると考えます。当事者ではなかったとしても、それを自覚したうえで、学ぶ必要があると思うのです。ここでいう「当事者性がある」とは、作り手側が実際に取り扱う事例の渦中にいたり、相対したりしていることとします。
センシティブなテーマを演劇で扱うということは、演者に対して、観客に対して誠実であることが絶対条件だと思っています。その理由は、演劇の持つ「作品と観客と演者の関係」にあります。
劇場で観客は、席を立ちづらい、作品から逃げにくい環境に置かれ、演者はその逃げられない観客の反応を直接その肌で感じることになります。それが演劇の特徴であり魅力ですが、いざ本番中に“なにか”あって(例えば観客がみていられないという態度を示す、作品内で前置きなく過度な露出があるなど)誰かがショックを受けたとき、作家や演出家には何もできません。せいぜい公演が終わった後に“なにか”について謝罪するくらいでしょうか?しかしながら、それで負った“なにか”の傷は癒えません。
先ほど、どんな芸術、表現、演劇でも人を傷つける可能性があると書きましたが、それは免罪符ではありません。“なにか”が起きる前に、上演の意義を考え話し合い、取材や勉強をし、できる限りの配慮をする。これが私の“上演に対する誠実”です。それでも作品が誰かを傷つけてしまったら、それはもう削ることのできない作品の力であり意味であるため、何か別の対策を考える必要はあれど咎を負うものではない。少なくとも、この上演は暴力ではないと言えると考えます。
...本当にそうなのか?では実際に何をすればいいのか?考えているだけではなく、試さなくてはわかりません。だからこそ今回はセンシティブなテーマを扱い、避けては通れない問題に挑もうと決めました。
この公演で私は、責任を取る準備と覚悟を持って、誠実に取り組むことで、安心して(安心できない内容だったとしても安心できないと知っていることに安心して)観客に舞台を見ていただきたいし、役者に舞台に立ってほしいし、スタッフワークに取り組んでもらいたいのです。そのための準備をしています。
例えば、当事者性があるということは、3で先述した「感情、またそれの基となる経験という目に見えないその人自身のものを扱う」ことになるので、稽古でも非常に繊細にならなくてはなりません。勉強というのは、テーマ自体だけではなく、そういったテーマの扱い方や稽古・話し合いの方法まで含めてする必要があるでしょう。
そのため、勉強会では座学のように知識を身につけるのに加えて、「哲学対話」という安全な対話を守るルールがあるうえでの対話の場を設けます。そこでは、テーマ自体についてはもちろん一見関係のないものについても話すようにします。それにより、コミュニケーションを取りやすい稽古場づくりや、センシティブなテーマに触れるときの配慮や、テーマ自体の見識を深めていきます。
意見交換会は、今はまだ構想段階ですが、演劇の専門家ではなくテーマの分野の専門家の方をお招きして、お話をする会を考えています。テーマそれ自体についてのお話を伺うことに加えて、センシティブなテーマを演劇で扱うには、といった課題に対してなどのご意見も、より客観的に伺えるのではないかと考えております。
今作に関して私は当事者でありつつ、書籍や大学の授業を通して勉強をしてきました。まだまだ半ばですが...。3の目的とも重なる部分が多いので、ガイドラインや気を付けるべき点をまとめたものを『座組の方針』として設け、記録を残すつもりです。そのガイドラインも、主宰側が定めるだけでなく、稽古を通して座組から出た意見を反映し、随時更新していく予定です。
やりたいことをやるためだけなら、個人で完結する形態を用いたほうがよいでしょう。繰り返しになりますが、演劇は一人では作れません。人と関わることで、一人では作れないものを作る。それが演劇のリスキーで怖いところであり、面白いところなのです。だからこそ、たくさんの配慮と対策が必要なのだと思います。
さて。4 つの目標について、設定した理由や何をもって達成とするかを書いてきました。
私がここでこだわりたいのは、作品の物語などのソフト面についてに限らず、どちらかと言えば作り手の健康や資金繰りなどハード面についてであることです。当公演において私は主宰・脚本・演出などを務めますが、役者であってもこうした外側について考える必要があると私は思います。そこにこだわることが、作品の中身、ひいてはそれを観るお客様にも影響を与えると信じているからです。
潔癖症になりたいわけではありません。ただ、今後も演劇を続けていくうえで、避けては通れない課題だと思ったのです。ならば、意思を共にする人々と、学生のうちに、自分の手の届く範囲を作って取り組みたい。今のうちに失敗したいのです。失敗しないように心がけますが!
真っ暗なだだっ広い舞台に蓄光を一つ貼るような、誰も見つけられないような些細な明かりかもしれません。でも、やるべきだと一度思ってしまったから、私はやります。
参考
・文化芸術振興議員連盟 勉強会「新型コロナウイルスによる文化芸術活動への影響について」(2023 年 1 月 10 日アクセス)
http://ac-forum.jp/2021/03/18/2904/
・例文買取センター(2022 年 12 月 10 日アクセス)
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